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わがクオリティ・ライフ [味村ノート]

新聞.jpg 現代人は,朝夕の通勤電車でも,出張時の新幹線や飛行機でも,寸暇を惜しんで活字を見るようだ.活字は新聞,週刊誌のたぐいから小説本,教養書,専門書など実に幅広い.二宮金次郎もビックリといったさまだ.

 筆者も「濫読(らんどく)をすすめる」くらいだから,例外ではなかった.「なかった」と過去形にしたのは,1年ほど前まではそうだったが,いまはやめているからだ.深い子細があってのことではない.年齢のなせるわざ,眼が遠くなったためだ.何という字かと追うだけに懸命で,何と書いてあるのか,文章として読むにはムヤミと時間がかかる.ムリに続けると,肩はこるし,頭まで痛くなる.もちろん眼鏡は持っているが,いちいち取出すのも億劫だ.どうせ通勤には小1時間,出張でも2,3時間ですむことだ.ケチケチしないで思い切ってヤメチマエと相なったしだいだ.

◇ レフレクシブに考えてみる ~日常を俯瞰(ふかん)する~

 そうは決心したものの,はじめは正直いって,情報の収集が人より少なくなり,それだけ知識の取得も減り,果ては世の中から取り残されるのではないかと心配でならなかった.ところが,しばらくしてフシギなことに気付いたのだ.

 乗り物で本を読むのをやめたからといって,眠ることにしたわけではない.車窓を流れる景色や車内の風景などを何となく眺めるのだ.そして「日ざしも秋になった」「半袖姿も少なくなった」「風の音にぞ何とかいう和歌があったな」「出だしはたしか“秋来ぬ”とだった」「そうだ,“秋来ぬと目にはさやかに見えねども”だ」「下の句は‘‘風の音にぞ驚かれぬる’’だ」「ちゃんと覚えていたぞ」「さて,作者は」……といった具合に,何にも誰にもこだわらず,ひたすら自由に思いめぐらしてゆく.時間的にも空間的にも勝手気ままにものを考える.

 「フシギだな」はこのあとでやってくる.10分か20分もたつと頭の中から日常生活が離脱し,異質な世界が生じてくる.そして平常思いもやらぬことに気付いたり,問題解決の着想を発見したりする.大げさにいえば,インスピレーションみたいなものがひらめくのだ.この「フシギだな」について,最近,ひとつの解を知ることができた.

 それは,渡部昇一氏の「クオリティ・ライフの発想」(講談社,1977)である.「毎日1時間だけ,今までやらなかった“高級な”ことをやることによって,残りの23時間のクオリティが善変するのではなかろうか」という発想から,渡部氏は1日60分の異質な時間として散歩をすすめる.

 「疲れているときでも,少し酒が入っている時でも,とにかく散歩用の靴をはいて歩き出す.15分か20分たつと体が暖まってくるし,いつの間にか頭は日常生活から離陸してくるのである.飛行磯かグライダーで地上を見下すような気持で自分の日常生活が小さく見えてくる.それはすでに異質な時間帯が頭の中に生じてきたことである」
 
 これは,筆者の車中での状態にはなはだしく似ている.渡部氏は,この「日常生活から離れた時間における頭脳状況は,アーノルド・ベネットのいう[レフレクシブ・ムード:内省的気分]にあたる」と説明する.つまり「人はいつも自分の外の風景を見,外からの音を聞く.しかし人間の心の中は,全宇宙に匹敵するほど広いのだ.自分の心の中の風景を挑め,自分の心の中の音楽を聞き,自分の心の中の討論会を傍聴してみるのである.目がさめている間,われわれの五官の刺激はすべて外から来るのであるが,外から来るものを遮断して内からわき上がってくるイメージに心をゆだねるのであるというわけだ.

 しかし,日常の仕事ではむしろ逆だ.たとえば,ある目的でレポートをまとめるとき,調べものをする,つまり,広く参考文献を読む,多くの人の意見を聞く,現場なり現物なりを見るなどをして,情報を多く取得し,これらを整理して考えてゆく.だから,日常生活での知的活動は外からの情報をできる限り利用して行なわれるわけだ.すると,渡部氏のすすめる散歩や筆者のいう車中での知的活動は,むしろ情報を遮断して行なうから,異質なものになる.
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◇ インテレクトは老いない ~知識を俯瞰(ふかん)する~

 渡部氏は“知”または‘‘知的”に2種類あると指摘する.ひとつは[インテレクト]で,もうひとつは[インテリジェンス]だ.両者の差異に渡部氏は「知的生活」の著者ハマトンの比喩を引用する.「どちらも鳥の移動能力にかかわるわけであるが,ワシの羽のような感じのするのがインテレクト,それからダチョウの足の感じがするのがインテリジェンスだ」

 詳しくは渡部氏の本などにゆだねるとして,[インテリジェンス]とはふつうにいう頭のよさだ.学校では教えられたことをよく覚え,いいつけをよく守る・社会では日常の実務をテキパキと処理する.この場合,知の対象は日常的なこと,地に足がついているという感じだから「ダチョウの足」にたとえられる.

 [インテリジェンス]には「情報」という意味もあるように,「情報をえて,整理し,かんがえ,結論をだし,他の個人にそれぞれ伝達し,行動する(梅棹忠夫:「知的生産の技術」,岩波新吉1969より)」ことをうまくやるために必要な知だろう.これは社会を維持し日常生活をする上で大切であり,高く評価されるべきものだ.

 [インテレクト]は日常生活に必ずしも即しない,悪くいえば空(くう)をつかむところがあるかも知れない.だが,ゆうゆう飛翔する「ワシの羽」にたとえられ,独創的,創造的生活を可能にする.だから,[インテリジェンス]とは別な意味で評価されるべきものだ.

「インテレクトをひきだすには,受動性と,それとを組み合わさった沈黙ということが,いちばん重要な前提になる」そして,受動性を破るものが外からくる騒音だが「それが無意味であって心を乱さないようであれば,それはむしろ静寂のうち,沈黙のうちに入れてよい」と渡部氏はいう.

 「フシギだな」はかくして氷解した.四六時中[インテリジュンス]を追っかけてきたのが,まったくのはずみで[インテレクト]をひきだすことを知ったわけだ.それは「ワシの羽」はおろか「トンビの羽」にも及ばぬかも知れないが,少なくとも1日2時間足らずは頭に異質な運動を与えることになり,残りの21時間余りのクオリティを高めることになるのだ.

 しかも渡部氏は有難いことをいう.「インテリジエンスは肉体のおとろえとともに,正比例的に衰弱してくる傾向がある.一方,[インテレクト]はいくつになっても衰えず,むしろより深くなり,かつ,[インテリジェンス]の衰えをふせぐ力をもっでいる」
 かくして,筆者はわがクオリティ・ライフを身近かに発見できたしだいである.

[目]

本文書き出しの[現代人]は30年ほど前の[現代人]、[今の現代人]はさてどうでしょう。

30歳少し前、通勤の行き帰り、立ち上げたばかりの事務所を手伝ってくれていた従妹と、ホームで電車を待つ間など周りの人を観察しては失礼にも点数をつけていたものです。容姿や洋服のセンス、歩き方、目には見えない性格まで予想して点数をつけ、何故その点数かを論じます。従妹は容姿もそれなりでしたのでまだしも、私が人様の容姿やセンスに点数をつけるなど烏滸がましいことこの上ない話ですが、洋服から仕事内容や勤務先を予想してみたり、歩き方から性格を描いてみたり、なかなか楽しい時間でした。その癖は未だに抜けず、今も一人で電車に乗っての帰り道は、目についた人の仕種や表情から性格や感情を推量しては、時々笑みをこぼしてしまう怪しい人となっています。「“高級な”レフレクシブの1時間」とはいささかかけ離れた通勤時間ではあります・・・。

[いす]
〇 [味村ノート]については→こちら 
〇 イラストは下記URLよりフリーイラストを使わせていただきました。
   http://peoples-free.com/index.html

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