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漱石の個人主義 [味村ノート]

 世紀末と片付けたくはないが、大地震、大殺戮、オウムと名乗る大ムジナと物情騒然のさなか、4月初めに左足首骨折の憂き目に遭い、暫くは入院の被目となった。無聊の慰めにと、折よく配本の漱古全集第16巻で『私の個人主義』を久し振りに読み直した。
 これは、大正3(1914)年11月25日午後3時から学習院輔仁会で行った講演で、時に漱石は48歳、世を去る2年前のことである。実施に至るいきさつが冒頭で語られるが、荒正人『漱石研究年表』(集英社、1974)なども参考に、あらましは次のようである。

 大正3年春、学習院弁論部長・岡田正之から講演依頼があり、漱石は10月なら「日数を大体繰って見て、それ丈の時間があれば何うにか出来るだらう」と受け合う。ところが、9月になり、4度目の胃潰瘍のため1箇月程病臥する。10月4日、岡田が雨の中を「長靴を穿いて」再交渉に来たので、11月25日で承諾する。10月末やっと全快するが「まだ一ケ月も余裕がある」と「横着な料簡を起こして、ずるずるべつたりに其日其日を送」る。「二三目前になって、何か考へなければならないといふ気」にな一るが「考へるのは不愉快なので、とうとう絵を画いて暮らしして仕舞」う。漱石とて人の世の常で、結局「今朝少し考を纏めて見ました」という仕儀になる。

 これに続いて、落語「目黒の秋刀魚」を引き合いに「此学習院といふ立派な学校で、立派な先生に始終接してゐる諸君が、わざわざ私のやうなものの講演を、春から秋の末迄待つても御聞きにならうといふのは、丁度大牢の美味(立派なご馳走:筆者注)に飽いた結果、目黒の秋刀魚が一寸味はつて見たくなつたのではないか」「珍しいから、一口食つて見ようといふ料簡ぢやないか」「他所の人が珍しく見えるのではありますまいか」と盛んに畳み掛ける。荊妻も含めて世の漱石フアンの顰蹙(ひんしゅく)は百も承知で、この皮肉の連発はちと厭味が過ぎるようだが、どうだろうか。

 英国留学に至るまでの経歴に続いて、ロンドンの下宿の一間で「他人本位」は駄目だということに気付いたと、話は核心に触れてくる。他人本位とは「自分の酒を人に飲んで貰つて、後から其品評を聴いて、それを理が非でもさうだとして仕舞ふ所謂人真似」と断じて、それが「無暗に片仮名を並べて人に吹聴して得意がつた男が比々皆是なりと云ひたい位ごろごろして」いるわけだという。
80年も経つが世の中は変わらないものだと思う。

 淑石は「普通の学者は単に文学と科学とを混同して、甲の国民に気に入るものは屹度(きっと)乙の国民の賞讃を得るに極つてゐる、さうした必然性が含まれてゐると誤解してかゝる。其所が間違つてゐる」という。大方の評論は、当時「進化論」を社会や文化に適用した「社会進化論」に対する批判と受け取っている。自然科学は普遍という常識の範囲ではその通りだろうが、その常識もそれ程牢固としたものとは筆者に見えない。「文学も科学も」とした方が現代的かも知れない。
 ともあれ、漱石は「自己本位といふ四字」に到達し「多年の間懊悩した結果漸く鶴嘴をがちりと鉱脈に堀当てた」のである。

 講演の前半部、漱石のいう「此講演の第一篇」はここまでで、後半の「第二篇」に移るわけだが、後半の「自己本位」の実践論は、またの機会に繰り延べたい。


image_02m.jpg[目]

冒頭書き出しで、「えっ」と思われたかもしれませんが、本文は1995年に掲載されたものを一部編集し転載したものです。本文に言う[80年]に、さらに20年がたち、世の中はどう変わったでしょか?
「自己本位」「則天去私」。漱石が他界した年齢を過ぎましたが、「う~む 分からん」というより「できん」という毎日を過ごしています。



[いす]
〇 [味村ノート]については→こちら 
〇 イラストは下記URLよりフリーイラストを使わせていただきました。
   http://object-free.com
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